11 ,2013
ちょっとお仕事がきつい今日この頃(涙)。 うーんと 「赤川鉄橋」で満足しちゃったのか このあとは夕焼けの反射もきつくなってきて写真も少ない それなりにと云うか「赤川鉄橋」の人道部がこんな事にならなければ 全国クラスで主役を張れる方もお見えになる 引続きの淀川沿いなのに 当日の現地でも燃え尽きた感はハンパなかった。 今回は「赤川鉄橋」に会いたかっただけだから 仕方がないけど 淀川の穏やかな流れとはウラハラに感情の起伏は激しい道のり 本来、記録係は電卓の様にクールでいなければならないのにオレがこんなんでどうするの
「鉄と機械の関係」と云ってしまえば どこにも血はかよってないはずなのに 確かに感じたあの温もりや この倦怠感はなんだろう 「赤川鉄橋」以降の淀川沿いは、まるで親族のお葬式に参列した帰り道ようでした。 でもお仕事も淀川沿いもやらないと終わらない また(涙)
SRにかからないように塩を振って再出発。
「赤川鉄橋」から下流側に見えてた水管橋かな? のランガーは見事にスルーしてる 残念。 対向2車線になって府道に昇格した底の道をしばらく行くと「淀川大堰」が見えたから堤防に登ってみた

この手の堰の管理塔は窓がちょうど目になって、 愛嬌のあるロボット兵達が整列しているようにみえる 堰なのに上流側と下流川で水位が違うようには見えないし 穏やかだけど流れているようだから このロボット兵達はお仕事あるのかな ぼーっとしてないでちゃんと働いてよね

振り向くと 水管橋らしい水色のランガー橋。 その奥、すぐ下流側に「新淀川橋梁」(阪急千里線)竣工 1979年(昭和54年)9径間連続の下路で平行弦ワーレントラス。 さらに下流側にニールセンローゼ橋の「長柄橋」竣工 1983年(昭和58年)。の3本が密集して淀川をまたいでいました
「長柄橋」は今でこそよく見かけるようになった形式のおしゃれな橋。 この時は気づきもしなかったけど南詰めに「橋姫」さんが祀られていたようでした。

竜閑斎画『狂歌百物語』より「橋姫」写真拝借
嫉妬深い「橋姫」さんのお話は聞いた事はあったけど妖怪っぽいからビビって耳を塞いでた。 有名なのは宇治川に架かる「宇治橋」に祀られてる「橋姫」。 しまった今回も「宇治橋」をスルーしてきちゃった 勉強して出直します。
そうとは知らず普通に「長柄橋」で淀川を渡り 少し戻るかたちで 今度は左岸堤防の底の道に出て淀川沿いを下る。 底の道を下りはじめて割とすぐ 手作り感を否めない古そうな歩道橋をくぐった。

爽やかそうな淡水色をしてるけど なんども錆びを吹き出した肌は 表面がボコボコしてその年齢を隠しきれていない 帰ってきてから調べると この底の道は元々「長柄運河」だったとアル。
今の淀川は明治18年の大洪水をきっかけに明治30年から明治43年までかけて大改造された人工の川だったのか それ以前の淀川は細くて蛇行してたし 街中を流れてたから洪水がおきると被害がすごく大きかったために 街の中心部から離れた北側に新しい放水路を開削し 川幅を大きく拡げて、大雨の時に大量の水を直線的に海に流せるように造り変えられたんだって 川の底に沈んだ町内もあるだろうけど すごいこと考えるね

淀川河川事務所より写真拝借。
掘削するときに大量に出る土砂を運ぶためと、新淀川開削で水源が無くなる正連寺川へ流水する目的で まず「長柄運河」が造られた。 でも昭和44年頃に埋め立てられて 今はご覧の様にただの空き地にってる

この「豊崎一之橋」はその「長柄運河」を渡るために大正14年に架けられた橋。 下を水が流れなくなってからだってもう随分になるね

オレ的にはうれしいけど なんのために残されたのかな 誰も渡っていなかったし ご老体だから 正直、もうそんなに長くはなさそうだった(涙) ここから淀川駅までの間に こんなふうに取り残された橋があと5本、この橋も入れて計6本 むなしく風だけが流れる空き地を跨いでいます
河口側に下って 順番に
「豊崎二之橋」

「中津一之橋」これは半分新しくされてるな まだまだ必要ってこと?

「中津二之橋」

「鷺洲一之橋」


「鷺洲二之橋」

「中津一之橋」だけ半分新しくなってて真ん中に橋脚も新設されてるから2連になってるけど 元は全て下路の平行弦ポニーワーレントラスの1連。 1925年(大正14年)10月架設の日本橋梁大阪製。
今頃は下を流れる風にざわついていたススキも枯れて 一層、寂れた様子でふてくされているのでしょうか。 これからもここが運河だったという事を、生き証人として語り継いでいっていただけますように どうか長生きして下さい。
途中、間、間にもいろんな橋があるんだけど「長柄運河」の歩道橋だけ先につづけてやっちゃった ちょっと後悔しつつも 淀川沿い その5につづく
「鉄と機械の関係」と云ってしまえば どこにも血はかよってないはずなのに 確かに感じたあの温もりや この倦怠感はなんだろう 「赤川鉄橋」以降の淀川沿いは、まるで親族のお葬式に参列した帰り道ようでした。 でもお仕事も淀川沿いもやらないと終わらない また(涙)
SRにかからないように塩を振って再出発。
「赤川鉄橋」から下流側に見えてた水管橋かな? のランガーは見事にスルーしてる 残念。 対向2車線になって府道に昇格した底の道をしばらく行くと「淀川大堰」が見えたから堤防に登ってみた

この手の堰の管理塔は窓がちょうど目になって、 愛嬌のあるロボット兵達が整列しているようにみえる 堰なのに上流側と下流川で水位が違うようには見えないし 穏やかだけど流れているようだから このロボット兵達はお仕事あるのかな ぼーっとしてないでちゃんと働いてよね

振り向くと 水管橋らしい水色のランガー橋。 その奥、すぐ下流側に「新淀川橋梁」(阪急千里線)竣工 1979年(昭和54年)9径間連続の下路で平行弦ワーレントラス。 さらに下流側にニールセンローゼ橋の「長柄橋」竣工 1983年(昭和58年)。の3本が密集して淀川をまたいでいました
「長柄橋」は今でこそよく見かけるようになった形式のおしゃれな橋。 この時は気づきもしなかったけど南詰めに「橋姫」さんが祀られていたようでした。

竜閑斎画『狂歌百物語』より「橋姫」写真拝借
嫉妬深い「橋姫」さんのお話は聞いた事はあったけど妖怪っぽいからビビって耳を塞いでた。 有名なのは宇治川に架かる「宇治橋」に祀られてる「橋姫」。 しまった今回も「宇治橋」をスルーしてきちゃった 勉強して出直します。
そうとは知らず普通に「長柄橋」で淀川を渡り 少し戻るかたちで 今度は左岸堤防の底の道に出て淀川沿いを下る。 底の道を下りはじめて割とすぐ 手作り感を否めない古そうな歩道橋をくぐった。

爽やかそうな淡水色をしてるけど なんども錆びを吹き出した肌は 表面がボコボコしてその年齢を隠しきれていない 帰ってきてから調べると この底の道は元々「長柄運河」だったとアル。
今の淀川は明治18年の大洪水をきっかけに明治30年から明治43年までかけて大改造された人工の川だったのか それ以前の淀川は細くて蛇行してたし 街中を流れてたから洪水がおきると被害がすごく大きかったために 街の中心部から離れた北側に新しい放水路を開削し 川幅を大きく拡げて、大雨の時に大量の水を直線的に海に流せるように造り変えられたんだって 川の底に沈んだ町内もあるだろうけど すごいこと考えるね

淀川河川事務所より写真拝借。
掘削するときに大量に出る土砂を運ぶためと、新淀川開削で水源が無くなる正連寺川へ流水する目的で まず「長柄運河」が造られた。 でも昭和44年頃に埋め立てられて 今はご覧の様にただの空き地にってる

この「豊崎一之橋」はその「長柄運河」を渡るために大正14年に架けられた橋。 下を水が流れなくなってからだってもう随分になるね

オレ的にはうれしいけど なんのために残されたのかな 誰も渡っていなかったし ご老体だから 正直、もうそんなに長くはなさそうだった(涙) ここから淀川駅までの間に こんなふうに取り残された橋があと5本、この橋も入れて計6本 むなしく風だけが流れる空き地を跨いでいます
河口側に下って 順番に
「豊崎二之橋」

「中津一之橋」これは半分新しくされてるな まだまだ必要ってこと?

「中津二之橋」

「鷺洲一之橋」


「鷺洲二之橋」

「中津一之橋」だけ半分新しくなってて真ん中に橋脚も新設されてるから2連になってるけど 元は全て下路の平行弦ポニーワーレントラスの1連。 1925年(大正14年)10月架設の日本橋梁大阪製。
今頃は下を流れる風にざわついていたススキも枯れて 一層、寂れた様子でふてくされているのでしょうか。 これからもここが運河だったという事を、生き証人として語り継いでいっていただけますように どうか長生きして下さい。
途中、間、間にもいろんな橋があるんだけど「長柄運河」の歩道橋だけ先につづけてやっちゃった ちょっと後悔しつつも 淀川沿い その5につづく
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